日常のあみだくじ
- 2006-12-03 (日)
- カテゴリー: Diary
私は今まで音楽に関しての教育を受けた事がない。
しかし音楽家のはしくれとして当然の事ながら、普段から音には敏感である。
以前「絶対音感」という本を読んだ事がある。幼少時からの訓練によって絶対音感の精度を高めた者の中には、物音の音程がわかってしまう為に、生活の中で絶えず発生する諸々の音が音符として頭に浮かんでしまい、うるさくてかなわん。なんて事があるのだそうだ。
しかしそのような教育を受けていない私であっても、生活音の騒々しさに悩まされる気持ちはちょっぴりわかる気がしないでもない。むしろする。
時計の針が刻むチッ・チッというBPM60のリズムに気をとられた2小節後には頭の中でドラムパターンが鳴り出し、
そのうちフィル、所謂オカズと呼ばれるドラムの音列をスタトコトコドーン、ダチッチッチタカタタカタと口ずさんでいるうちにハッと我に返ると口内が乾燥して喉がカラッカラ。
或は深夜、水道の蛇口の締めが甘かったせいで、水滴がシンクに落ちるポタッ・ポタッという周期に気付いた場合も同様である。
そのリズムに合わせたかの如く絶妙なタイミングで、外を走る車の音がフェードイン/アウトしたり、鳥の鳴き声がハマった時などはもう大変。
感動の余りにしばし立ち尽くしては、不意を突いて聞こえた隣家のドアが閉まる音のタイミングに「うーんイマイチ」などとダメ出ししてみたり、何も展開がない時には「ちっ、使えねぇな」と吐き捨て肩を落として居間に戻るのだが、肝心の蛇口は締め忘れたまま。
ああ、貴重な資源を無駄にしてごめんなさい。そう想うと同時に水不足で悩む貧しい国の子供達の無垢な瞳が脳裏に浮かんで、明日はきっと募金しに行こう、でもどの国を助けりゃいいのだろう、とネット上で調べる内に予想外の検索結果に目が止まり、「募金」から始まったはずの検索キーワードがいつの間にか「アフリカ 足 鈴」に変わっていて、ブラウザ上には謎の楽器の画像とその値段が表示されているという有様。
最もうるさいのは己の連想である事に気付き、瞑想に打ち込もうと決意した私であった。
しかし妄想に翻弄されている内に瞑想する事自体を忘れて眠りにつく私である。
明日はどこにたどり着くのやら。